かつては暴力事件が頻発していたともいわれる日生学園は、日本一のスパルタ高校としても有名です。
そんな日生学園はダウンタウンの浜田雅功の出身校ということでも有名ですよね。
今回は、日生学園出身の芸能人・有名人11選!なぜこんなにも超スパルタなのか!について調べてみました!
日生学園についてや、日生学園出身の芸能人・有名人が気になる方は必見です!
日生学園について
日生学校法人日生学園(にっせいがくえん)は、三重県津市白山町の青山高等学校内に本部を置く、1965年12月13日に認可された学校法人です。
学園第二高等学校は2015年4月1日から青山高等学校(あおやまこうとうがっこう)と名称変更しており、それによって、特別進学Sコース、特別進学コース、進学コースの3コース制になりました。
日生学園第二高等学校は1990年代までスパルタ教育を取り入れています。
その教育方針は軍隊さながらで、生徒同士の暴行事件や寮からの脱走、自○などと不審死が相次いだ結果、この問題は当時国会議員も乗り出して国勢調査が行われ、三重県も日生学園に対する行政指導を行いました。
1985年には当時の教師が週刊誌に内部告発。荒れた学園模様を暴露し世間の注目を集めました。
日生学園の教育内容
・水曜日と休日の日曜日以外の平日は、毎朝4時に起床。
起床後はまず点呼を取り、洗顔、着替えなどを済ませた後、”心行(しんぎょう)”と呼ばれる大声で叫びながら足を大きく広げて床を一心不乱に磨く修行をします。
各部屋10分間、各階の廊下で10分間を終え、全校生徒全員が道場に集合しし約1時間するため、大合唱で小刻みに震えながら床を1時間あまり磨くその光景はまさに異様な光景です。
寮に戻る前にも点呼を取り、さらに寮に着いても点呼と各過程に点呼はつきものなのでしょうか。
急いで汗を拭いて制服に着替えると、整列の後に集団登校し食堂前に集合し、国旗と校旗掲揚(雨天時は中止)、食堂に入り朝食を素早く摂り、その後校歌斉唱。
朝早くから活動しているので、午前中に4時間、昼食を挟んで午後に1時間の5時間授業です。
帰宅時は、整列しながら集団下校。寮に着くなり点呼をし、素早くジャージに着替えると雄叫びを上げながら心行開始。
その後は約6キロのマラソンをし帰寮と点呼をします。階ごとに風呂に入るため待っている間は自由時間!・・・ではなく自習の時間です。
風呂が終われば食堂前に集まって国旗と校旗の掲揚をしやっと夕食を食べられます。
食事の際には10曲以上あると言われる校歌を大声で熱唱。夕食後は速やかに帰寮し点呼、そして自習が始まります。
ここで、唯一の優しさでしょうか、間食としてアンパン(タカツキパン製)と牛乳が支給されます。
自習を終えると消灯し、怒涛の一日はおしまい。就寝です。このスケジュールの中で自由時間は一切ありません。
授業の間の休み時間はおろか、食事中も24時間、私語は一切禁止です。寮にはテレビはもちろんラジオや雑誌、新聞など娯楽に繋がるものは一切ありません。
そのため、生徒らは極度のストレスが溜まってしまい、その結果、発散方法は唯一いじめや喧嘩しかありませんでした。
これらの生徒を指導する先生はさらに厳しい戒律があると言われており、坊主頭はもちろん生徒らより1時間早い夜中3時に起きる必要がありました。
・日生学園の日曜日にも休息はない
休日である日曜日は朝7時に起きることが許されています。点呼と歯磨き・洗顔を終えて声を張り上げながらの15分の心行は365日年中無休です。
その後食堂に集まって点呼。朝食の後は校歌を歌ってから帰寮と点呼をします。昼食までは自習時間です。昼食は食堂ではなく寮にパンが配られ、その後再び自習です。
昼寝タイムもあるものの頭を休める15分程度の仮眠で、オーバーすると”誤睡”として怒られてしまいます。
仮眠が終わると夕食まで再び自習。夕食後も自習。ここで唯一の優しさの間食パンが支給されます。
そして就寝時間まで自習。その後消灯。日生学園には日曜日にも自由時間はありません。
・軍隊のように上下関係が厳しい縦社会
すし詰め状態の寮は、ひと部屋最高で48人まで収容でき、ひとつの階に4部屋まであります。
そして、1年生から3年生まで区別なく振り分けられるので天下の3年生以下は何かしら窮屈な思いをします。
実際に日生学園第二高等学校の卒業生が過去にあった上下関係について言及しているものがありました!
先輩が怖かったです。 三年生は天下、二年生は平民、一年生は奴隷なんて言われていましたからね。 先輩の言うことは絶対。 いじめや暴力、喫煙も日常茶飯事でしたね。 脱走する生徒も月に数人は出ましたね。 とにかく自由な時間や空間がなく、プライバシーなんて無視ですね。 僕は普通科にいましたが、普通科でさえこんな感じです。 戸塚ヨットスクールと良く比較され、陸の戸塚と言うあだ名があります。 過去には自殺者や校内での不審死も相次いだ時期もあります。 とにかく高校と呼べるような学校ではありません。 僕はもう二度とあんな収容所みたいな所には行きたくないです。
引用元:Yahoo!知恵袋
特に1年生は”奴隷”であるため、上級生らの身の回りの世話はすべてする必要があり、3度の食事も上級生らが口にするまではお預けという普通の生活では考えられない状況です。
口答え=死に値するため、3年生の言うことには絶対服従が原則。たとえストレスが溜まった3年生や教師から理不尽な説教や暴行を受けても1年生は我慢して受け入れるしか無いような状況です。
・いじめや拷問による自殺者が多発した
3年生や先生からのいじめや暴力は日常茶飯事です。肩パン・平手打ちは挨拶のようなものです。
時にはまるでプロレスラーのようにパイプ椅子で殴られたり、一晩中正座をさせられたり、腕を上に上げさせて動かないように命令されるなど、これらのことでも日生学園ではまだかわいい方でした。
校内では公然と拷問が横行。ホッチキスを開いて叩きつけて芯を刺す・ほうきを膝の裏に挟み込ませて正座をさせる、その上に乗るなど、その他にも水責め等の致命的にならない程度の拷問が行われていました。
なんと、権力を握っていた教頭の怒りが爆発した際には、ベルトを引き抜いて金属製のバックルで思い切り頭を叩かれることもあったようです。
流血している生徒にハンカチを差し出すことすら許されない環境なのでした。
暴力以外にも拷問があったとのこと。病気になっても致命的で無い限り病院には連れて行かれることはなかったようです。
風邪をひいて熱が出ていても、先生が体温計で体温を測り、38度を超えないと休むことは許されません。
たとえ40度の高熱が出ても支給されるのは市販薬のみで、病院には行かせてもらえません。なので、根性で治すしかありませんでした。
こうした人権を剥奪した環境にあったため、生徒らの脱走は日常茶飯事。そして、自殺者・不審死も多数発生していたようです。
・日生学園で有名な”素手でトイレ掃除”
スパルタ時代の日生学園の代表的なエピソードとして挙げられるのが”素手でトイレ掃除”です。
生徒らは雄叫びを上げながら頭を激しく揺さぶり素手で便器に手を入れ便器を綺麗にしていました。
雄叫びを上げながら頭を激しく揺さぶっていたのは便器に手を入れているという現実から意識を背けていたのかもしれません。
日生学園には「便器は心の鏡」という教えがあります。
便器が汚れていると心も汚れていることの表れで、汚い便器をあえて素手で洗うことに意義を見出していました。
そのことについて、浜田さんはこんなことを言っています!
三重県の日生学園第二高校(現・青山高等学校)出身の浜田は、「忘れようと思っても忘れられない」と語りだす。
トイレ掃除は素手で便器を磨き、「汗でモワンと蒸気が出ていた」と懐古。
引用元:smartflash
しかし、素手で便器を洗う人は芸能界にも少なからず居るようです。サッカー選手の槙野智章さん・俳優の高橋一生さんも便器を素手で洗うようです。
素手で洗うとたわしやスポンジでは分からない便器表面の目に見えない汚物、水垢の凹凸までわかるため、神経質かつきれい好きな男性ほど素手で便器を洗う人が多い傾向にあるようです。
・スパルタ時代の日生学園は偏差値40以下だった
スパルタ時代の日生学園の偏差値は40以下でした。当時の日生学園は、国内の最底辺のランクの高校。
日生学園に入学する生徒の多くは他の高校では通用しない不良・問題児ばかり。この当時は手に負えない生徒をスパルタ教育で叩き直す学校は、いくつかあったようです。
定期テストの時期などは、消灯後も自習をする時間が許可されるなど、日生学園は学力向上の対策が講じられていました。
また、日生学園では上級生が下級生の勉強を率先して見てあげることが多かったようです。
上級生は下級生の成績を上げることに尽力していたようですね。しかし、これは親切心からやっているのではありません。
下級生の成績不振は上級生の責任だという”面倒見”の文化がある日生学園。
ペナルティを受けないためにも上級生は暴力をふるってでも下級生に勉強をするように仕向けていたのです。
・トイレ以外は机の範囲から出ると怒られる
普通の学校では多くの生徒が机のパイプの上にレッグレストのように足を置くことは普通ですよね。
しかし、日生学園はそうではありません。日生学園ではパイプに足を乗せたり、机の範囲から足を出すことは許されません。
授業の合間の休憩時間はトイレ以外に席を立つことは許されず、当然私語も禁止のため次の授業の準備を終えたら姿勢を正して座ってまつのみでした。
・大声を出し続ける学園生活で声が枯れる
日生学園に入学後は、まず3日の内に校歌、応援歌、寮歌など10曲を丸暗記させられます。これらの歌を歌う際は腕を大きく振りながらはち切れんばかりの大声で歌うことは絶対条件。
歌以外の返事や心行中の掛け声など多くの場面で大声を出すことを求められます。その結果、ほとんどの生徒は入学3日を待たずして声が枯れるそうです。
・下着の色まで決まっている
スパルタ時代の日生学園の制服は普段の学校生活用と実家への帰郷用と2種類があり、女子生徒も全員ズボン着用でした。
普段の男子の制服は薄いブルーのYシャツにネクタイ、まるで特攻服のように短いブレザー。帰郷用はブレザーが普通のものに変わります。
寮に戻った時などはジャージに着替え、靴や靴下は学校指定のものです。下着は無地の白限定となっています。
男子の髪型は寒い冬も合わせて年中五厘となります。
・お金の所持が許されていなかった
スパルタ時代の日生学園では生徒はお金を所持してはいけませんでした。
文房具など学校生活の必需品を買う場合は購買部を通して必要なものを書き、それを朝担任に提出して許可が降りれば買うことができました。
校内に自動販売機などは一切ありません。生徒が口にできるのは水道水か熱いお茶、間食の牛乳くらいだったとのこと。
・雨よけすることは許されなかった
スパルタ時代の日生学園では傘をはじめとした雨具は所持が禁止。豪雨や台風、豪雪でもそれらに打たれるしかありませんでした。
理由はわかっていません。
・生徒の鏡になるため教師はさらに厳しかった
日生学園では住み込みの先生を教師と呼び、通勤してくる先生を講師と呼んでいたようです。
教師は生徒らよりも1時間早い夜中3時に起きて準備を始め、生徒が登校してくる前に道場(体育館)で心行を行います。
遅刻や、気合が入っていなかったりすると、教頭から容赦なく殴られていたようです。
教師はタコ部屋ではなく個室が与えられており、時間外の飲酒や喫煙は認められていました。
日生学園には全国からどうしようもない問題児が集められていたため、教師の多くは武道経験者や元不良など強面で舐められないタイプが多くいたようです。
しかし、中には教員免許を持たないまま教師をしていた人もいたと言われていました。それほど日生学園は担い手がいなかったと考えられます。
・日生学園のテスト平均点は異常に高かった?
テスト前日になると消灯後の勉強が許されたものの、これは”カンニング”を含めた慣習的なものであり、なんと、先生が出題されるテスト問題を教えてくれていたそうです。
もちろん答えまでは教えてくれなかったものの、当日のテストで出る問題を書き写すことができた生徒たちは前日中に同級生や先輩などと協力して答えを導き出しテストに臨んでいました。
なので、スパルタ時代のテストは赤点を取りようがないですよね。
平均点は異常に高かったようです!
このカンニングとも言える問題の流出が行われていた理由は、生徒の点数が悪いと教師が教頭などから酷い体罰を受けるためでした。
・日生学園では”下界”するにも作法があった
生徒らは俗世から隔離されていたため世間を「山の下の世界」という意味も込めて”下界”と称しており、帰郷が近づくと「あと何日で下界に帰れる」と待ち遠しい思いで待っていたようです。
帰郷の2日前には男子は全員綺麗に五厘刈りにしなおし、当日は朝4時に起床して心行を行うとところまでは一緒です。
その後、帰郷用の制服に着替えて朝食後に食堂前に集合します。
麓の駅まで送るマイクロバスが到着すると、待ってましたと言わんばかりに生徒らから拍手喝采が沸き起こりました。
広大な敷地に立つ日生学園第二高等学校は、校門まで2キロ。駅までバスで15分。
そして、駅に到着すると教師から休暇中の戒め等話があり、西の大阪方面と東の名古屋方面に行く人で分かれてそれぞれ実家に帰郷します。
日生学園の冬休みや春休みは20日ほどあるものの、夏休みは世間よりも短く3週間ほどしかありません。大半の生徒は帰郷します。
しかし、部活で合宿がある生徒は学校に1週間ほどの居残りとなります。この時ばかりは生徒は朝7時の起床が許されました。
さらに親などからお菓子やジュースなどの差し入れも許可されていました。
日生学園は普段が自由が全く無い反面、長期休暇中の宿題や課題は全く無いという極端なものだったようです。
それも手伝って休暇の終わりが見えてくると生徒らは「また地獄が始まる」と、うつ病のように落ち込む人も多くいたとのこと。
・密輸が横行
日生学園の給食は不味いこと有名でした。
白米ではなくぬるい麦飯に冷え切った味のぼやけたおかず、時にはなんと小石や虫などといった異物も混入されていました。
とても成長期の生徒が食べるような食事ではありません。当然お菓子など嗜好品は皆無。
持ち込みも禁止だっため、食に対しての不満も溜まっていた生徒らは、何とかして密輸を企てていました。
思春期であることからも異性を愉しむための雑誌も渇望されていました。
そこでなんと生徒は親に頼んで仕送り品の枕などの中に細工をして忍び込ませて密輸していたようです。
それでも頻繁に仕送りできるわけではないので、年に数回の楽しみだったと思われます。
しかし、もし密輸が見つかれば激しい体罰が待っている、まさに命懸けの密輸でした。
日生学園出身の芸能人・有名人!11人
話を聞くだけでも、鳥肌が立つようなスパルタ高校の日生学園ですが、一体どのような生徒が通っていたのでしょうか?!?!
そんな日生学園出身の芸能人について調べてみました!
浜田雅功
画像出典元:ナタリー
ダウンタウンの「浜ちゃん」こと浜田雅功さん。日生学園の卒業生として最も有名な方ですね。日生学園の卒業生の中でも、出世頭と言っても過言ではない存在の浜田さんです。
浜田雅功さんがスゴいのが、そんな日本一のスパルタ教育を誇る日生学園にあって、“副学寮長”の地位にまで上り詰めたことです!
浜田雅功さんが在学していた当時は、特に厳しかった時代だったそうです。そこで他の生徒の見本となる副学寮長に任じられていた浜田さんの根性は大したものです。
そんな浜田さんが、日生学園に入学することになった理由がこちらです!
全寮制高校に入学することになったきっかけは、「人の家のドアをノコギリで切ったから」と告白。家に遊びに行く約束をしていた友人が電話に出ないため、「どうしても入りたくなって」と、木製ドアの金具を外してから「ノコギリを突っ込んで横に切った」と振り返った。
そんな悪童ぶりに「普通の学校に行かせたらやばい」と思った浜田の父が、担任の教師に相談したのだという。全寮制高校に入り、「あそこに入ったおかげで真人間になって帰ってきた」と話して、笑いを誘っていた。
引用元:smartflash
人の家のドアをのこぎりで切る・・・。不良が多いといわれている日生学園ですが、浜田さんもなかなかの悪だったようですね。
さらには、相方の松本さんが当時の浜田さんについてこんな発言をしていました!
浜田は、松本人志と小学校、中学校の同級生だが、松本は一度、脱走した浜田を駅まで迎えにいったことがある。「立ち食いうどん屋に連れてったったら、熱いうどんを一すすりで食べましたよ」とあまりに過酷な生活から逃げ出した浜田の慌てぶりを語っていた。
引用元:smartflash
熱いうどんをひとすすりだなんて、普通ではありえません。まるで、脱獄犯のような心境だったのかもしれませんね。
今田耕司
画像出典元:スポニチ
お笑いタレントの今田耕司さん。
最終学歴は「清風高等学校定時制課程普通科」となっている今田耕司さんですが、実は、今田耕司さんも、清風高等学校定時制に入る前に、浜田雅功さんの2年後輩として日生学園第二高等学校に在籍していたようです!
“在籍していた”というのも、今田さんは日生学園を中退しているからです。
今田さんは当時のことをこんな風に語っていました!
新聞やテレビなどは一切禁止、甘い物も食べてはいけなかったという。だが手紙はOKだったことから今田は母親に「寮のみんなで食べるから、枕の綿の中に“いちごみるく”キャンディを入れて、枕を送る感じで送ってください」と書いて送付。無事、“密輸”に成功し、それをまずは3年生に献上したそう。
今田はこの禁欲的な生活に耐えきれず脱走し、そのまま中退したと語っていたが、笑福亭鶴瓶は「刑務所やん」、藤ヶ谷太輔も「全然学校の話じゃない」と驚いていた。
引用元:エンタメRBB
自らがリスクを負って密輸したイチゴミルクの飴をまずは三年生に献上する・・・。
まさに噂通りですね!
脱走しそのまま中退したとのことですが、この高校の場合は中退するのも大変そうですね・・・。
鶴瓶さんと藤ヶ谷さんの言う通り、まさに刑務所!というような環境ですね。自分が在学していたら一週間も居られる自信がありません。
山口賢一
画像出典元:京橋経済新聞
プロボクサーの山口賢一さん。
大阪天神ジム選手兼会長。 元WBOアジア太平洋スーパーバンタム級暫定王者で、日本人初のWBO世界タイトル戦挑戦者という、強者ボクサーです!
中学校からは野球部で活躍し、高校2年生からはエースを務めていたそうです。
日生学園は野球やダンス部、放送部などの強豪校でもあるそうなので、山口さんはボクサーだけでなく、野球も得意だったようですが、プロ野球選手を夢見たが、身長が足らずプロになれないと知り、やめたそうです。
千葉和彦
画像出典元:アルビレックス新潟
プロサッカー選手の千葉和彦さん。Jリーグ・アルビレックス新潟所属。元日本代表です。
そんな千葉さんも日生学園の卒業生だったそうです!
高校生時代のことを千葉さんはこう語っていました!
画像出典元:jleague.jp
実際に入ってみると、確かに「やばい」学校だった。
「さすがに僕の時はトイレを素手で洗うことはなかったですけど、オブラートに包んで言えば、お叱りを受けながら鍛えられましたよ(笑)。ただ、今思えば愛情はあったと思います。あの環境で、あの仲間たちがいなければ、今の僕はなかった。その意味で、いい時間を過ごさせてもらったと思っています」高校は全寮制だった。寮は山の中にあり、まさに隔離された環境だった。朝5時に起床し、6時から朝練。放課後も遅くまで練習に明け暮れた。そんな過酷な生活に、厳しくて逃げ出してしまう生徒も少なくなかったという。
引用元:jleague.jp
三重高校が本命だったものの、成績が足らずに日生学園入学を決めた千葉さん。
ですが、今ほどネットも普及していなかった時代で、日生学園がどのような高校かということを知ったのは入学が決まってからだそうです。
千葉さんの時代には、俗にいう酷い時のスパルタ時代とは少し外れているようです。過酷な学校生活に加えて、厳しい部活動もこなしていた千葉さん。
そんな千葉さんの強さの理由にこの過酷な高校時代は関係しているに違いありません。
尾崎瑛一郎
画像出典元:アスルクラロ沼津
プロサッカー選手の尾崎瑛一郎さん。福井ユナイテッドFCに所属しています。
静岡市立城山中学校では主将を任され、「無名の高校を強くしたい」と考え、サッカー部を強化指定クラブにした直後の三重県・日生学園第二高校(現・青山高校)に進学したそうです。
そんな経緯で、日生学園に入学した尾崎さんですが、高校時代の教師についてこんなコメントをしていました!
高校時代の恩師である先生のおかげで今の自分があると思っています。そんな先生、人間になりたいと思っていた。それはサッカー選手になった今も変わらない。情熱、人情、厳しさ、優しさを本当に持った方でした
引用元:Jリーグ
尾崎さんは、厳しさの中にも優しさがあるそんな教師と出会えたんですね。ただただ厳しい印象のある日生学園ですが、少し見方が変わるコメントでした!
鮫島秀旗
画像出典元:ウィキペディア
元プロ野球選手で、現在は、東京ヤクルトスワローズのチームスタッフをしている鮫島秀旗さん。
日生学園は野球やダンス部、放送部などの強豪校でもあるそうなので、それが入学理由なのかもしれません。
高校卒業後にドラフト6位指名でヤクルトに入団した鮫島秀旗さんですが、高校も全寮制であったにもかかわらず、プロ入り後も自ら寮生活を選んだそうです。
長谷川豊
画像出典元:ニコニコニュースオリジナル
元アナウンサーの長谷川豊さん。
毒舌キャラということでも知られる長谷川さんですが、長谷川豊さんも日生学園の卒業生です!
そんな長谷川さんは中高一貫の名門進学校洛星中を卒業しているそうですが、日生学園に入学した理由についてネットでこんな話を見つけました!
画像出典元:Yahoo!知恵袋
”人生は自分で切り開く!”と、なんともかっこいい理由です。
担任教師に慰留される程、成績は良かったようとのことです!高校時代に国民文化祭の朗読部門で全国1位だったそうです。
山林芳則
画像出典元:スポニチ
プロ野球選手の山林芳則さん。
なんと、山林さんは日生学園第三(現・自由ヶ丘)高校時代から150km/h近い速球を投げ注目される凄腕の野球部員だったそうです!
日生高校の過酷な日々は、その後の山林さんの野球人生の糧になったでしょう!
しかし、高校3年次の夏は、兵庫県予選で北条高校に敗れてしまったそうです。
海猫沢めろん
画像出典元:cakes
小説家、作家、ライターの海猫沢めろんさん。
代表作は、キッズファイヤー・ドットコムということでも知られています!
そんな海猫沢めろんさんも意外なことに日生学園の卒業生ということがわかりました!
海猫沢めろんさんが、自身のツイッターでこう発言しています!
画像出典元:”地獄に日々”に対してコメントされてないということは、海猫沢さんも過酷な学生生活だったのかもしれませんね。
永澤陽一
画像出典元:国際ファッション専門職大学
ファッションデザイナーの永澤陽一さん。
1957年、京都に生まれ、一人っ子として育った永澤陽一さんは、軍人だった父が買ってきたゼロ戦のおもちゃで遊ぶなど、ファッションとは無縁の幼少期だったそうです。
そんな永澤さんも日生学園の卒業生で、なんと母校の制服のデザインをされているとのこと!
画像出典元:桜丘中学校・高等学校
かわいらしい制服です。あの鬼のような学校の制服だとは思えないです。
赤松芳朋
画像出店元:ミューズ音楽院
現在はBLUEVINE、Signal modeで活動中の赤松芳朋さん。
赤松さんも日生学園の卒業生です!学生時代から音楽活動を行っていたようなのですが、高校時代の赤松さんのエピソードは残念ながら見つかりませんでした・・・。
しかし、バンドではドラム担当の赤松さんは、少し前には音楽の専門学校でドラム講座の講師を務めていたそうです!!
日生学園卒業の赤松さんが一体どんな指導方法をしていたのかが気になりました!
日生学園はなぜ超スパルタだったのか?
画像出典元:いらすとや
日生学園第二高校のスパルタ教育を提唱した初代学長・青田強さんは”お国のために○ねる”生徒を育てたかった?
1980年代からのスパルタ教育が最も盛んだったと言われる日生学園第二高等学校(系列校含む)の学長は青田強さんですが、すでに亡くなっておられます。
現在は息子の青田進さんが、森田強さんの思想を引き継いでいます。
生前、青田強さんの教育理念は「一流の人間を育てる」というものでした。
そして、その思想を体系化した「青田強全集」という10巻からなる著書を残しています。
日生学園第二高等学校の行き過ぎたスパルタ教育を見る限り、軍国主義を体験した青田強さんの徹底した統制を以て私欲を捨て去り公に尽くすという考え方が浸透しているようですね。
しかし、戦後40年あまりが経過した昭和後期の時代にはまったく合いませんでした。
また、当時は高度経済成長期のいわゆるバブル時代。
それを下支えしてきたのが「モーレツ社員」「企業戦士」と呼ばれた、現代の言い方に置き換えると”ブラック企業の社畜”のようなサラリーマン達でした。
こうした背景もあり、青田強さんはそうした社会につぶされない強い生徒を育てたかったのかもしれません。
しかし、バブルの崩壊とともに時代にそぐわなかった青田強さんの教育も崩壊。そして、現在の青山高等学校のようにスパルタ教育は時代に合わせて緩和していきました。
日生学園芸能人まとめ
画像出典元:いらすとや
今回は、日生学園出身の芸能人・有名人11選!なぜこんなにも超スパルタなのか!について調べていきました!
日生学園というスパルタ高校の創設理由は、どうしようもない問題児を更正させる学校を作るためでした。
中には卒業生が社会で事件を起こしたケースもあります。しかし、それはどこの学校でも同じ事です。
そして、この過酷な学生生活を経て更生できた生徒は多くいたことでしょう。