一発屋だった女性・男性歌手35選!実は一発当てるだけで一生食べていける

「一発屋」とは、大舞台で一時的にのみ活躍をみせた歌手、映画監督、芸人、作家、スポーツ選手などを表した呼称表現であるといわれています。

その中でも今回は歌手の皆さんにスポットを当ててみました。世の中で一発屋歌手と言われている女性男性歌手といわれてあなたは誰を思い浮かべますか?

誰もが一度は耳にしたことがあるヒット曲を歌っていた歌手だけど、知っている曲は本当に一曲だけでしょうか⁈またその曲誰をはどのようにして大ヒットしたのでしょうか。

 

そこでそんな一発屋女性男性歌手35人について紹介します。彼女や彼たちはその一発で一生食べていけているのでしょうか?

また、現在、彼や彼女達はどのような人生を送っているのか?そこにも迫っていこうと思います。

 




一発屋女性歌手!9人

 

それでは世の中で一発屋と言われている女性歌手を紹介していきます。

 

 

May J.

may j

画像出典元:MayJ. | Facebook

 

2014年、ディズニーのアニメ映画『アナと雪の女王』の主題歌『Let it Go~ありのままで~』をカバーして一躍有名になりました。

その後、様々なメディアで引っ張りだことなり、同年の紅白歌合戦の出場を果たしています。

 

日本人の父親とイラン出身の母親の間に生まれた彼女は、その美貌と、3歳からバレエ・ピアノを学び、8歳からは声楽、作詞作曲の勉強もこなしたことによる音楽の確かな実力を発揮。

13歳でAVEX ARTIST ACADEMYボーカルコースを主席で卒業したり、翌年にヤマハ「シンガーコンペティション2003」の全国大会本選でソロ部門特別賞を受賞したり、MTV・BGMの共同企画の「アヴリルラヴィーンコンテスト」優勝「MTVミュージックアワード2003」オーディエンス賞を受賞など、数々の賞を受賞しています。

 

ただ、ヒット曲がカバー曲だったため、「カバー歌手」とイメージされることが多くなり、そのことで傷つくことも多かったそうです。

彼女のカバー曲といえば、「レットイットゴー」の他に、一青窈の「ハナミズキ」や、宇多田ヒカルの「First Love」など、歌唱力がないと到底歌いこなせない名曲ばかりですが、彼女は見事に歌いこなしています。

 

しかしやはり彼女自身歌手としての実力があっただけに、自身のヒット曲に恵まれなかったことは、余計に悔しかったのかもしれませんね。

そんな時期も乗り越えてあれから7年、今年の春からYou Tubeを始めました。

 

ロケからカラオケまで、まるでバラエティー番組のような内容で、本来の陽気な彼女のキャラクターが全面にでており、それによってテレビ朝日の「関ジャニの仕分け∞」ではカラオケ得点対決で連勝し続けた結果、26連勝して、番組では歌姫と呼ばれていたと言います。

それもあってかテレビ出演も徐々に増えてきているようですね。

 

 

青山テルマ

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画像出典元:UNIVERSAL MUSIC JAPAN

 

2007年フィーチャリングゲストとして参加したSoulJaのシングル『ここにいるよ』が大ヒットして一躍名が広まります。

そしてさらに2008年にSoulJaをフィーチャーした2ndシングル『そばにいるね』オリコン1位を獲得し、この曲は「日本で最も売れた着うたフル」として、ギネス記録を受賞していて、その年の紅白歌合戦にも出場しています。

 

幼いころから歌に興味を持ち、その後インタナショナル・ハイスクールに往復4時間かけて通いながらボイストレーニングを始めました。

10歳のころに歌に目覚めてゴスペルを習い始め、12歳のころに家族とアメリカのロサンゼルスに移住してアメリカで数年間過ごします。

 

その後、日本に帰った時に音楽関係者から声をかけられたことで、メジャーデビューを目指してボイストレーニングに励みました。

そして2006年にアメリカンスクールを卒業し、上智大学国際教養学部に入学して、5年半かけて卒業したことからも相当な頑張り屋さんであることがわかりますね。

 

2007年に「ONE WAY」でメジャーデビューしますが、オリコン98位とヒットしませんでした。

『そばにいるね』のヒット後、周りから求められる曲と、自分が実際やりたいヒップホップやR&Bなどの曲とのギャップに苦しめられていた時期もあったようです。

 

28歳までにグラミー賞を受賞することが夢だと語っていたようですが、それは残念ながらかなわなかったみたいですね。

 

しかし2016年以降は彼女の明るくサバサバしたキャラクターが受けて数々のバラエティー番組に出演するようなっています。

人気バラエティー番組の「今夜くらべてみました」では、“家庭的な部分をアピールする女が嫌い”と発言したり、昔いじめられた時の対処法を話したりと、「ぶちゃけキャラ」というイメージが広がり、主に女性を中心に新たなファンが増えたようです。

 

また2020年にアメリカで起きた、ジョージ・フロイドの殺害事件に際して、自身のインスタグラム内で、自分自身も黒人、日本人の血を引いていて、日本でもアメリカでも人種差別を受けてきたと告白して、Black Lives Matter運動への賛同を表明しましたね。

 

 

花花

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画像出典元:ウィキペディア

 

元々学生時代からの同級生だったこじまいずみおのまきこによって結成された女性デュオで、インディーズ時代の1999年に『あ~よかった』が大ヒットし、2000年にメジャーデビューを果たし、『さよなら大好きな人』紅白歌合戦に出場しました。

結成当時はシャンプーというイギリスの女性アイドルデュオの名前を捩って「RINSE(リンス)」という名前だったそうです。何だかかわいいエピソードですね。

 

メインボーカルはこじまおの低音パートやピアノを弾いていますが、自分が作った曲ではメインボーカルをすることもあるそうです。

彼女達の、女性の気持ちを歌った歌詞を反復させるような曲が印象的で一度はカラオケで歌われた女性も多いのではないでしょうか?

 

デビュー曲の「あ~よかった」はよみうりテレビの「ダウンタウンDX」のテーマ曲に使われ、大ヒットして、日本有線放送大賞で新人賞を受賞し、次のシングルの「さよなら大好きな人」はテレビドラマ「オヤジぃ。」の主題歌に使われたりと、これからますますブレイクしそうなアーティストとしてささやかれていたようです。

しかし、メジャーデビューからわずか3年で所属事務所が無くなってしまい、2003年に音楽活動を休止することに

 

ところがこの時期の二人は取材対応などに追われていて、あまりの多忙に本来の音楽活動が出来ていなかったと語っていて、本音を言うと少し休みたかったと後々語っていました。

その後、休みつつもソロ活動は継続していたようです。

 

こじまいずみソロ活動としては、2006年にアルバム「PICTOGAPH」、2013年には「闇」をリリースしています。

おのまきこの活動はどうでしょうか?彼女は2004年から温厚明媚(おんこうめいび)という4人組のバンドのメンバーとして活動しています。

 

二人は2009年から大阪と東京で復活ライブを行って、再始動していて、2010年にはアルバム「ハライソ」をリリースしたり、ラジオ番組や地方局のテレビ番組の出演など精力的に活動。

また、2020年にメジャーデビュー20周年を機に事務所を独立して、ユニバーサルミュージックにレーベル移籍していますね。

 




 

平松愛理

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画像出典元:amazon

1992年に『部屋とYシャツと私』100万枚近いセールスを記録する大ヒットとなり、一躍有名になりました。

医者の家庭に育った彼女は、お嬢様育ちだったようで、4歳からピアノを習い始め、10歳の時にカーペンターズのファンだった兄の影響で歌に興味を持ち、兄と2人でピアノを弾きながらカーペンターズをはもっていたとか!すごいですね!

 

中学ではコーラス部に入りつつ、ピアノでオリジナル曲を作り始めます。もうここからシンガーソングライター平松愛理は始まっていたんですね。

高校では軽音楽部に入って、ガールズバンド「ワイプアウト」にボーカルとして加わり、学園祭で自分で作った曲を披露した時に、観客からもらった拍手によって、プロになる!と決心したそうです。

 

しかし、医者の家庭に育った彼女は、両親から歌手になることを反対されていたようですが、17歳の時に関西ローカルのオーディション番組の「ヤングプラザ」に出演したことで認めてもらえるようになったようで、それからは様々なコンテストにもチャレンジできるようようになったといいます。

18歳の大学時代にアマチュアバンド「ERI&WONDERLAST」を結成していましたが、22歳の時にメンバーと別れ、東京に上京してアルバイトをしながら曲を作り、レコード会社に売り込む生活を送っていたそうです。

 

上京して3年目にレコード会社のディレクターの好みの曲風に、自分の曲をアレンジし直して再び持ち込んだところ、気に入られ、デビュー曲「青春のアルバム」が生まれたそうです。

このエピソードからも彼女の歌の才能だけではなく、営業能力もたけていたことがわかりますね。

 

そして1992年にアルバム「TREASURE」からシングルカットした「部屋とワイシャツと私」がヒットして大ブレイクを果たしました。

その後は結婚・出産を機に、少し音楽活動を控えたり、1995年に起きた阪神淡路大震災で実家が倒壊したことがきっかけで、復興支援活動に力を注いでいるようです。

そのこともあって、神戸への社会貢献が認められ、神戸新聞文化賞を受賞しています。

 

その他にも幼いころから音楽好きでピアノオリジナル曲をつくっていた経験を活かして、様々なアーティストに楽曲を提供。

離婚や病に倒れたりなど様々なことがあったようですが、現在もライブを行うなどの活動を続けているようです。

 

このように、一曲しか売れていないというよりは、彼女自身が自分の信念にもとずいて行動し、今までの音楽人生を歩んでいるという感じですね。

 

 

植村花菜

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画像出典元:Twitter

 

2010年に大ヒットした『トイレの神様』は、彼女の体験談をアコースティックギターの弾き語りで歌い始めるという、聞き手をどんどん引き込む手法が話題となり、最初アルバムナンバーだったにもかかわらず、多くのラジオ番組で流されました。

 

その後、翌年の紅白歌合戦にも出場を果たしましたが、実はこの曲の長さは10分もあり、カットせずに歌わしてほしいといった植村花菜に対して、そんなに全部歌いたければ私を切って歌えばいい、と、大御所の和田アキ子が発言したというエピソードが残っているようです。

結局、間奏をカットして7分55秒で歌ったそうです。

 

8歳の時に観た、ミュージカル「サウンドオブミュージック」に影響を受けて歌手になろうと思ったようで、ジョン・メイヤーのライブビデオを見てギターを勉強したということです。

彼女の歌詞の書き方は、自分の身の回りに起きたことを題材に書いており、まずテーマを決めて長文を書き、そこから歌詞になる言葉を抜粋するという、彼女ならではの書き方で、それを聞くと、「トイレの神様」が出来上がった理由がわかる気がします。

 

その後、歌の内容が絵本・小説・テレビドラマになります。

ドラマだけではなく、絵本や小説にまでなったということは、この曲の内容が幅広い層の人たちに受け入れられた証拠ですね。

 

「トイレの神様」のヒット前には「植村花菜のかなでるラジオ」や日本放送「オールナイトニッポンRスペシャルナイト」やMBSラジオの「ゴチャ・まぜっ!木曜日」など、ラジオ番組への出演が多く、そのことも有線放送からヒットしたトイレの神様につながっているのかもしれないですね。

その後彼女は日本有線大賞有線音楽優秀賞を受賞し、同時にトイレの神様特別賞を受賞、ベストッヒット歌謡祭ゴールドアーティスト賞も受賞しております。

 

その後は生活拠点をNYに移し、英語圏のひとには「Uemura」の発音は難しいと感じ、名前をKa-Naへ改名しました。

視野を広げることが目的だったようで、ストリートやライブハウスで歌いながら、アメリカ大陸を横断したとか!すごいガッツですね。

 

2019年に日本で一時帰国した後、コ○ナの影響で戻れなくなってしまい、現在は日本で生活しながらまた再びNYに戻る準備をしているようです。

彼女の行動や紅白での発言などをみていると、かなり自分の意志をはっきりと持った、強い女性という印象を受けますが皆さんはどう思われますか?

 

 

RSP

RSP

画像出典元:Sony Music

 

RSPは、Ai・Sakiとダンサー4人で結成されたボーカルユニットです。

ソニーミュージックエンタテインメントと読売テレビが主催の「HIP HOP ・R&Bダンスユニット」を結成させてデビューさせるというオーディションプロジェクト「REAL STREET PROJECT」にて、5,000組以上の候補者から選ばれて2006年に結成されました。

 

そしてそのデビューへの道のりをドキュメンタリー番組として放送したために、その影響でそれを見た視聴者達は、彼女達に親近感を覚え、その結果、2007年に三木道山の『Lifetime Respect』を女性視点て歌うという手法で解釈した『Lifetime Respect ‐女編‐』日本有線大賞で最優秀新人賞を受賞。

彼女達はカバー曲だけっだったのでしょうか?

 

調べたところ、カバー曲だけではなく、オリジナル曲「感謝。」もリリースしていて、人気アニメ「BLEACH」エンディング曲にも起用されるなどの注目度も抜群っだったのですが、セールス面は低迷に終わってしまい、CDもあまりヒットしなっかたそうです。

2009年にダンサー4人は解散、ボーカル2人は引き続き活動することが発表されましたが、2013年に大阪ワンマンライブをもって解散

 

2013年に解散しますがそれぞれソロ活動を頑張っているようですね。

 




 

chay

chay

画像出典元:Billboard Japan

 

シンガーソングライターの他にも雑誌『cancan』の専属モデルもつとめる彼女は、2015年『あなたに恋をしてみました』がドラマの主題歌になり大ヒットしました。

 

小さい頃からピアノ・英会話・テニス・器械体操・バレエと多くの習い事をしながら歌手を目指し、小学生の時からピアノで作曲

大学の時には毎日6~8時間ものギターの練習を毎日続けたとか。彼女がギターを選んだのは、自身の女子っぽいルックスとのギャップを狙ってのことだそうで、売れるために色々考えていたようですね。

 

数々のオーディションを受けたり、路上ライブ活動を続け、2011年にトップコートと契約を結ぶことになりました。

 

彼女はデビュー前からオリジナル曲の「LOOP」洋服の青山のCMソングに使われたり、ワーナーミュージックジャパンから中原めいこの「君たちキウイ・パパイヤ・マンゴーだね」カバーして、レコチョクで配信を開始すると、着うたランキングで6位にランクイン。

その後、ロッテのCMソングに起用された「初めての気持ち」でメジャーデビューを果たしますが、その時のカップリング曲が、山下達郎の「高気圧ガール」のカバーで、その曲は、TBS系列ドラマの「リセット~本当の幸せの見つけ方~」のエンディング曲に起用されます。

 

その後も1980年代の化粧品のCMソングをカバーしたアルバム「make up 80s」がリリースされ、その中のアン・ルイス「WOMAN」のカバーがドラマの主題歌に起用されたり、オリジナル曲の「You tell me」ドラマのエンディング曲に起用されたりしました。

このように見ていくと、彼女はオリジナル曲とカバー曲をうまく組み合わせることによって、ファンを飽きさせず、更に色んなもののテーマソングに起用されることで知名度を上げていったようですね。

 

そんな彼女の知名度がさらにランクアップした出来事は、2013年にフジテレビの人気番組『テラスハウス』に彼女自身が出演したことでした。

そこで彼女の知名度がさらに上がり、モデルとして大ブレイクするのです。

 

このドキュメンタリーのテレビ番組に出演したことによって、本名が永谷真絵(ながたに まい)であることも公表し、彼女の素の姿に共感された方も多かったのではないでしょうか。

彼女はなぜ自ら応募したのでしょうか?

 

それは彼女自身、音楽活動に行き詰まりを感じていて、何とか出演をきっかけに打開したいと思ったという事でしたが、結果、モデルとして雑誌「CanCan」で彼女の特集が組まれたり、彼女が身に着けている服や小物が売れる「まいまい売れ」という現象がおこるほどのブレイクのきっかけとなり、結果として彼女のチャレンジは大成功だったと言えますね。

その後の2015年、6枚目のシングル曲「あなたに恋をしてみました」は月9ドラマ「デート~恋はどんなものかしら~」の主題歌になり、50万ダウンロードを超える大ヒットとなります。

 

2016年もフジテレビドラマ「早子先生、結婚するって本当ですか?」の主題歌「それでしあわせ」、日本テレビ系ドラマ「地味にスゴイ!校閲ガール・河野悦子」のオープニングテーマとして荒井由実の「12月の雨」をカバーしてリリースするなど、こうしてみていくと彼女というか事務所(?)の上手いセールス力に驚かされますね。

 

その後も映画「ダンスウィズミー」で女優デビューや、自身のことを書いた単行本「chay’s BEAUTY BOOK」を発売したり、アパレルブランド「three sisters.」を立ち上げたりなど様々な方面で活躍しているようです。

これまで見てきて思うのは、彼女は決して一発屋ではないということですね。

 

 

畑中葉子

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画像出典元:CD Journal

 

1978年に平尾昌晃とのデュエット曲『カナダからの手紙』がデビュー曲で大ヒットとなり、一躍トップアイドルとなりました。その年の紅白歌合戦にも出場。

 

高校を卒業してから平尾昌晃の主宰する「平尾昌晃音楽学校」(現平尾昌晃ミュージックスクール)に通っている時に、平尾に見いだされました。

「カナダからの手紙」のヒットでカナダへの日本人旅行者が急増したことで、カナダ政府から表彰されたとか!面白いエピソードですね。

 

その後、ソロ活動してみたかった畑中葉子は、1079年に「ロミオ&ジュリエット79’」でそろデビューしましたがあまり売れず、同年に音楽プロデューサーの檀雄二結婚するも、8か月で離婚。事務所に黙ってしたことから当時は大バッシングを受けたそうです。

ソロ活動をする中で雑誌『プレイボーイ』水着姿のモデルをしたことが話題になり、それがきっかけとなり日活ロマンポルノ女優として活動するようになりました。

 

清純派なイメージの彼女のポルノ界への進出は、世間に大きな衝撃を与え、その効果もあってか、主演映画で自ら歌ったシングル曲も大ヒット。

やっぱり人はギャップを好むものなんですね。

 

その後一般男性と再婚し、出産もします。

そこから2012年から太田プロ、2014年ビクターミュージックアーツ、2019年よりラフィーネプロモーションの所属となりました。

 

近年は復刻アルバムを発売したり、映画に出演するなど、女優としても活動しているようです。

現在も『週刊ポスト』で還暦ヌードグラビアが掲載されるなど芸能活動を続けているようですね

 

 

中村あゆみ

nakamuraayumi画像出典元:西日本新聞

 

1984年に日清カップヌードルのCM曲に起用された『翼の折れたエンジェル』累計50万枚を超える大ヒットしました。

彼女の歌を「人生の応援歌」として何年も経った現在でも励まされ続けている人は多いのではないでしょうか。

 

小さい頃から音楽に興味があった今までの歌手の人達とは違って、彼女は定時制高校に通い、昼はOLをして自活し、OLを退職した後は道路工事の仕事をして、真夜中はディスコに通うというパワフルな生活を送っていたそうです。

そんな姿を見て、「面白い子がいる」大手芸能プロダクションから声がかかったこともあると言います。よっぽど個性的で目立っていたのでしょうね。

 

当時は歌手ではなく、女優を目指していたようですが、後のプロデューサーである高橋研と出会い、デビューのきっかけとなりますが、彼と知り合うまで、音楽は聞いたこともなかったそうです。

そんな彼女の才能を見抜いた決め手は何だったのでしょうか。やはりあの個性的なハスキーボイスでしょうか。

 

1984年にシングル曲「NIDNIGHT KIDS」でデビューし、そののち3枚目のシングル曲の「翼の折れたエンジェル」が大ヒット。

同年の8月31日に日比谷野外音楽堂でREBECCAとジョイントライブをしたのをきっかけで、毎年8月31日に「AYUMIDAY」として、日本武道館などでスペシャルライブを行っています。

 

2度の離婚など、私生活ではアップダウンがあったようですが、加山雄三のイベントにゲスト出演したことがきっかけで音楽活動を再開しています。

現在、NOKKOや相川七瀬などの6組のママアーティストと、音楽祭「ママホリ2021~Genking Live」を開催しています。これは、コ○ナ禍で長引く巣ごもり生活が続いて大変なママたちを生の歌声で応援したいと思ったようです。

 

まだまだ音楽を通じてやりたい事は尽きないようですね。

 




一発屋男性歌手!26人

 

女性の次は、一発屋と言われている男性歌手を紹介していきます。

 

 

三木道三

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画像出典元:16ch

 

大阪を拠点にレゲエDJとして活動していましたが、2001年シングル『Lifetime Respect』を発売すると、日本のレゲエ史上初のオリコン週間シングルチャート1位を記録し、出荷枚数はミリオンセラーを突破しました。

この三木道山という名前の由来は力道山だと思われがちですがそうではなく、自身の苗字の「三木」と戦国時代の武将「斎藤道三」を掛け合わせたものだそうです。

 

1993年にジャマイカを訪れた時に、レゲエの魅力に取りつかれて、帰国後に大阪を拠点にレゲエDJとして活動。

その活動は7インチシングル「JAPAN一番」を発売したり、ミックステープ「MIKI‐FM1997ヘルス」を発売、それ以降も多くのアーティストの作品に客演していました。

 

1998年に全国ツアーを行って当時のプロデューサーと共にレーベル「大和RECORDINGS」を設立し、2000年にシングル「斬る!ジャパニーズ」でメジャーデビューを果たしました。

そして翌年にシングル「Lifetime Respect」を発売し、大ブレイクします。

 

大ブレイクしたものの、テレビにはあまり出演しない方針のようでしたが、大ヒットした2001年「ミュージックステーション」に出演した際に、司会者のタモリとのトークで「一発屋の匂いがする」と自虐的なコメントをしたというエピソードが残っています。

本人も何となくそんな予感がしていたのでしょうか?

 

実際にその後、アルバムからのシングルカット「明日の風」をリリースして以降はCDを出しておらず、それどころか消息も不明だったといいます。一体どうしたというのでしょうか?

実は、彼は過去の交通事故の後遺症の自律神経の乱れから体調を崩し、また加えて逆流性食道炎にもなり、音楽業界を引退していたそうです。

 

その後、一時期は寝たきり生活も経験したようですが、2014年にDOZAN11という名前に改名して再デビューしました。

復活第一弾として「Nippon!」を、第二弾として「Junmp Up Japan」をリリースし、アルバム制作にも取り掛かるなど、ライブ活動や楽曲プロデュースを中心に活躍しているようですね。

 

 

高橋ジョージ

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画像出典元:スポニチ

 

1993年『ロード』をバンド『THE虎舞竜』のボーカルとしてリリースし、220万枚の大ヒットとなりました。

 

1992年にインディーズ盤シングル「こっぱみじんのR&R」をリリースし、そのカップリング曲「ロード」と「道化師」でしたが、この時はほとんど売れなかったそうです。

しかし、高橋が深夜番組で『ロード』を歌ったことで人気が上昇することとなりました。

この曲のヒットで、彼の過去の最高年収が16億円あったことを彼自身がテレビ番組で明かし、出演者を驚かせたといいます。

 

その年収のスケールに見合った豪快なエピソードがあります。

当時、六本木の高級クラブに、ボロボロのジーンズで来店し、入店を断られたことに腹を立て、店を貸し切った結果、料金は6000万円になったそうです。

 

このエピソードはネットで話題になり、豪遊自慢しかないのか?などの批判の声と、一発屋のミュージシャンが自分の収入を自慢して何が悪いの?

という肯定的な意見もあり、生存競争の激しい芸能界で何もなく消えていく人も多い中で、一発屋でも話題があるだけ十分ではないかという意見も多くありました。

 

このエピソードからも高橋ジョージは自他ともに認める、「一発屋」ということになりますね。

以後、『ロード第2章』『ロード第3章』がヒットすることとなり、第13章まで制作されることとなりました。

 

まさか13章まであったとは‼と驚かれている方もいるかと思います。でもそれで驚いてはいけません。

2017年にアルバム「原宿☆ロックンロール☆ヒーローズ」で、「ロード~第十四章=愛別離苦」を発表し、13章で完結したはずだったのに、新章が加えられたのです。

 

まだまだ、それだけでは終わらせません。

2021年にTBSテレビ番組「水曜日のダウンタウン」内で最新作となる、ロード第15章の歌詞を一般公募して、音源化さました。

 

その曲は女性とのデュエット曲になっていて、その女性とはあのMayJ.という驚きの展開でした。

一発屋と言われている者同士でデュエットするということで、話題性を狙ってのことなのでしょうか?

 

それの他にも高橋は、バラエティー番組コメンテーター活動で活躍しており、現在も音楽番組への出演などミュージシャンとしてもタレントとしても活動しているようです。

また、現在でもカラオケ利用による相当な収益があるといわれており、「一発屋」をネタに活躍している彼こそが一番「一発屋」という言葉を利用し、愛しているのかもしれませんね。

 

 

河口恭吾

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画像出典元:Twitter

 

2003年自身が作詞作曲した『桜』日本有線大賞、有線音楽賞を受賞し、2004年には日本レコード大賞金賞を受賞し、紅白歌合戦にも出場し、大ブレイクします。

 

「桜」日立マクセル系のレコード会社からリリースされ、有線ラジオ放送問い合わせチャートで1位を記録しますが、レコード会社がなくなり、ワーナーミュージックジャパンに移籍して、再び「桜」をリリースしたところブレイクしました。

日本人は「桜」という名の曲が大好きなようですね。他にもたくさんありますよね。

 

その後も数々のシングル曲を出し、ライブ活動や楽曲提供を続けますが、約12年の間、中々ヒットには結びつかず、最新シングルはオリコン圏外、3年間も音楽番組によばれないという、苦悩する日々が続いたそうです。

テレビ朝日系のバラエティー番組「しくじり先生 俺みたになるな」で「桜ソングを作って一発屋にならないための授業」を展開しているところを見ると、彼自身も一発屋であることは認めているようですね。

 

とは言え、彼は「桜」以降にも様々な活動をしており、2005年には堂本剛、Lead、藤井フミヤへの楽曲提供を行ったり、2007年にはアルバム「普通に生きていく事は意外と難しい」に収録された楽曲、「地球兄弟」に込めた平和への祈りをテーマに「地球兄弟プロジェクト」を立ち上げます。

その活動で、環境系NPOとのイベントやチャリティーライブを行い、NGOと組んでカンボジアを訪問して、貧困地域の支援を目指した活動もしています。

 

2016年にはNHKみんなのうた「おじいちゃんちへいこう」へ楽曲提供しており、歌は氷川きよしが歌っています。

これだけの色んなジャンルの曲を制作し、提供できるということは実力は間違いないのだと思います。でもその実力と人気が比例しないのが芸能界なんですね

 

そんな日々を乗り越えて現在も20周年アルバム「No Rain NoFlower」を出すなどの音楽活動を続けているようです。

 




 

アンダーグラフ

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画像出典元:under- graph.com

 

4人組のバンドで2004年『ツバサ』メジャーデビューし、息の長いヒット曲となりました。

この曲のPVに長澤まさみが出演したことが話題となりました。

 

幼い頃からの付き合いの真戸原と阿佐が高校時代にアコースティックのユニットを組み、その後、ヤマハ音楽スクール谷口と出会い、その三人で神戸、大阪を中心にストリートライブ活動を行うようになり、大阪城公園では徐々に人気が出始め、1週間で10ステージを4か所で行っていたそうです。

それを楽器屋で働いていた中原が加わり、2000年にワンマンライブを大阪西九条で行い、同時に自主制作CD「願い/星の空」をリリースし、すべて手売りで関西で1000枚、関東で500枚売り上げて完売。

 

その後4人は「アンダーグラフ」を結成します。このバンド名には「表面的でない心の奥にある喜怒哀楽を形にした音楽を作っていく」という意味が込められているようです。

 

2002年にインディーズデビューシングル「hana-bira」をリリースし、インディーズチャート1位、その後の2ndシングル「ケ・セラ・セラ」も前作を超える勢いをみせます。

そこからかれらの実力は一気に認められ始め、2004年初の全国ツアーをし、フォーライフレコードから「ツバサ」でメジャーデビュー。

 

その後も数々のシングル曲をリリースし、デビュー曲の『ツバサ』ほどではないですが、コンスタントにオリコンランキングで上位に入っています。

2005年には2ndシングル「君の声」ノンタイアップで7位になり、その後もアルバムもシングルもトップ10入りなどを果たしています。

 

2006年には日本放送の「アンダーグラフのオールナイトニッポン」がスタートしたり、2009年には、V6に楽曲を提供し、その曲の演奏も任されたりと、色んな方面でも活躍しています。

 

これは凄いことです。しかし、ランキング上位に入っているにも関わらず、一発屋と噂されます。それはこの「ツバサ」があまりにもいい曲すぎたためなのでしょう。

全体的に上の方にいるのに、最初が上過ぎて、下降しているように見えてしまうという傾向にあり、彼らの本当のファンは「ツバサ」のフィルターを外して彼らの音楽を聴いてほしいと言っています

本当に同感ですね。

 

2012年にメンバーのひとりの阿佐が脱退することとなり、2021年に谷口が育児専念のため、ライブ活動を一時休止することを発表しましたが、その後も3人で音楽活動を続けているようです。

 

 

木山裕策

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画像出典元:Twitter

 

2007年のテレビ番組『歌スタ‼』に出演し、歌唱したことがきっかけでメジャーデビューすることになりました。

2008年『home』でデビュー、その年の紅白歌合戦にも出場。

 

2004年に会社の人間ドックでがんがみつかり、医者に手術で声がでなくなるかもしれないと言われ、本気でこれからの人生について考えるようになり、歌う事が大好きだったことから、深夜のオーデション番組に応募して、デビューにつながりました。

その後は、歌手活動は休日のみで平日は会社員として働くという独特のスタイルで注目を浴びることに。

 

その独自の働き方とは、会社員の方を3回も転職しているようです。デビュー前から数えるとなんと6社目だとか!どうしてなのでしょうか?

それは彼の「環境に合わせる」という考え方にあります。

 

元々、広告デザイナーという制作畑の仕事をしていましたが、そうなると、3日連続徹夜などはざらで、40代にもなると体力的にも大変なので、制作にこだわらずちょっとでも成長できるなら他のことを何でもやってみようというスタンスなんだそうです。

そうやって自分の枠を広げていくという行為が、自然と転職に繋がっていくんだとか。

 

そんな木山が一番大切にしていることは「家族が中心」ということだということです。

家族が何よりも大切と言い切れるからこそ、その時の状況に合わせて自分をどんどん変化させていく事が出来て、それがまた彼自身の成長に繋がっているのかもしれませんね。

 

そして、彼の今までの生き方を見ていると、家族思いの優しい人柄がわかります。

過去に大病を患ったこともあってか、医療関係の講演活動も積極的に行っており、2019年には朝日新聞社が運営する「ネクストリボン~がんとの共生社会づくりを目指して」プロジェクトのテーマ曲の「幸せはここに」をリリースしているようです。

 

現在も歌手活動と講演活動を中心に、2020年からは由紀さおり・安田祥子姉妹とのコラボレーションアルバム『家族の愛に包まれて』をリリースし、2021年からは、安田ファミリーとして、コンサート活動を開始することを発表。

彼の生き方を見ていると、思いのほか堅実で、一発屋という単語はそぐわないと感じました。

 

 

ピコ太郎

pikotarou画像出典元:スポニチ

 

2016年、「You Tube」に『ペンパイナッポーアッポーペン』を投稿し、世界的なヒットとなりました。

ピコ太郎は、お笑い兼シンガーソングライターの古坂大魔王が扮するキャラクターです。

この曲は一度聞いたら頭から離れず、誰しも一度は真似をしたくなりましたよね。

 

彼はお笑い芸人を目指して上京し、お笑いユニット『底抜けAIR-LINE』を結成します。その後、2003年にお笑いを休止して、テクノユニットノーボトムの活動に専念します。

そして、その音楽性を追求するために、2005年にユニット名をNBR(NEW BUSHIDOU RAVERS)に改名して、クラブイベントのプロデュースや、個人でも、mihimaru GTのアルバム・ライブツアーの参加や鈴木亜美の楽曲のリミックスをするようになります。

この実績を見ると、彼の音楽の実力がわかりますね。

 

2016年にYouTube上にピコ太郎という彼が扮したキャラクターで『PPAP』を流したところ、動画再生数が1億回を超えて話題に。

なぜそこまで世界的に受けたのか?それは、幼稚園レベルでもマネできるシンプルさで、人気芸能人やファッションリーダーたちの「やってみた」動画が注目度を集めたことや、日本語ではなく英語の歌詞で構成されたことで、その「やってみた」が英語圏にも広がり、ジャスティンビーバーが参戦したことが大きかったのではないかと言われています。

 

その後もこのピコ太郎というキャラクターは世界に通用するキャラクターだということで、米ニューヨークの国連本部で開かれた日本政府主催のレセプションに出席したり、貧困・飢餓の撲滅を目指す国連のSDGsの認知度アップのための大役を拝命したりなど、堅い仕事のオファーも増えているようです。

また自称アイドル好きとしてラジオ番組を担当し、アイドルユニットをプロデュースするなど、幅広い活動をしています。

 

彼は二つのキャラを持ち使い分けることで様々なジャンルの仕事を得ることができ、またお笑い界から音楽界まで幅広い人脈を持っていると言われており、彼の日本武道館のライブにもお笑い界からは爆笑問題やくりいむしちゅーらが駆け付け、音楽界からは東京スカパラダイスオーケストラや、ももいろクローバーZ、五木ひろしなどが出演したことからもよくわかります。

芸人でもアーティストでもない、唯一無二の存在としてまだまだ彼は活躍しそうですね。

 




 

Hilcrhyme

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画像出典元:エキサイト

 

二人組のメンバーTOC、 DJ KATSUで2009年に発売した『春夏秋冬』がスマッシュヒットを記録し、その年の日本有線大賞、日本レコード大賞新人賞を受賞しました。

2006年に新潟県で結成され、新潟では絶大な人気を誇るようになります。

 

そして、2009年にシングル「純也と真菜実」メジャーデビューを果たします。

ビデオクリップでは、ニュースキャスターの皆藤愛子真菜実役でウェディング姿を披露。

 

その同年の2ndシングル「春夏秋冬」着メロランキング1位、オリコンデイリーランキング1位となって、TBS系「COUNT DOUN TV」のエンディングテーマなどのタイアップを獲得して大ヒットとなりました。

その後も2010年にアルバム「リサイタル」シングル「大丈夫」「ルーズリーフ」をリリースし、この曲はTBS系ドラマ「ヤンキー君とメガネちゃん」の主題歌に。

 

2014年には日本武道館にてワンマンライブ『Hilcrhyme in日本武道館~Junction~』を開催し、チケットはSOLD OUTだったそうです。

2015年のシングル曲『言えない 言えない』はTVアニメ『実は私は』のエンディング曲に起用されます。

 

その後もライブやアルバムシングルを発売して精力的に活動していた彼らでしたが、とても残念なことが起こります。

2017年にメンバーのDJ KATSUが大麻取締法違反の疑いで逮捕されました。そして、その不祥事により、2018年に一人が脱退し、残りの一人で活動することになりました。

 

残されたTOCは、日比谷野外大音楽堂でワンマンライブ「Hilcrhyme Live 2018『One Man』」を開催して活動を再開。

2021年に10周年アルバムを発売するなど、現在も音楽活動を続けているようです。

 

一人になっても音楽への情熱は消えずに頑張っているようですね。

 

 

キマグレン

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画像出典元:シネマトゥデイ

 

ISEKIとKUREIの2人組の音楽ユニットで、2007年に発売したインディーズミニアルバム『LIFE』の表題曲として2008年にシングルカットされた、『LIFE』がヒット。

 

2005年に高校時代からの友人の二人がキマグレンを結成し、逗子海岸で夏季限定ライブハウス「CLUBEACH HOUSE KANNON」を設立しました。(現在は「音霊 OTODAMA SEA STUDIO」)

2008年にメジャーデビューを果たし、セカンドシングル「LIFE」が350万ダウンロードを記録して有名になりますが、2015年に解散を発表しています。どうしてなのでしょうか?

 

事の発端は、デビュー前からクレイが設立していた逗子のライブハウスの経営でした。

土地代、建設費、人件費、光熱費、有名アーティストなどの出演料などの出費で1年目の収支は7,000万の赤字でした。

 

そしてその借金が1億円になった時に、趣味でやっていた音楽活動が注目を浴び、「LIFE」のヒットでスポンサーも決まり、印税収入もあって借金も返すことができたそうです。

そこでやめておけばよかったのですが、そうはならなかったようです。

 

クレイは次なるステップを狙って、逗子から由比ヶ浜に移転するが、土地代は上がり、ライバルも多くなり、海岸での騒音規制も強化されて客足も伸び悩み、気が付けば、2億円の借金を抱えることとなりました。それが原因でキマグレンは解散することとなったのでした。

 

その後、大手企業に会社を買い取ってもらい、その会社の傘下に入り、その会社の役員になりましたが、それからまたしばらくして社長の座に就くと、海の家を2か所で準備中であると発言しました。

ほんとに懲りない人ですね。

 

解散後の現在の活動はメンバーの一人のイセキソロで音楽活動をつつけており、もう一人のクレイは、プロボクサーとしてデビューしたり、他の人に歌詞を提供したり、様々な活動をしていきたいと語っているようですね。

 

 

鼠先輩

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画像出典元:Twitter

 

日本のムード歌謡歌手で2008年のデビュー曲『六本木~GIROPPON~』がヒットし、200万ダウンロードを達成。

1993年に歌謡歌手を目指して20歳の時にインディーズ事務所に所属して、東京でアルバイト生活を続けていました。

 

実は、地元の彼女と別れる時に「30歳になる10年後の8月1日昼の12時に東京タワーの下で会おう」と約束を交わしていて、それ以降全く連絡は取っていませんでした。

そしてその約束の日に東京タワーの下で朝から待ち続けていると、夕方に彼女が現れ再開を果たし、告白するも振られることに。

 

このエピソードをもとにして作られた曲が「六本木~GIROPPON~」なのだそうです。その後、CDデビューを機に再告白して、後に結婚したということです。よかったですね!

この曲はレコチョクの着うた歌謡・演歌部門でチャート1位になり、またコミカルな振り付けも話題になって、最終的に200万ダウンロード以上を記録します。

 

鼠先輩という芸名の由来は中華料理店で働いていた時に、やることなすことが全て空回りだったことがハツカネズミを連想させるということで上司からは「ネズミ」後輩からは「ネズミ先輩」と呼ばれたことからだそうです。

 

有名にはなりましたが、彼はシビアに考えていたようで、見た目も強烈なおっさんがふざけた歌を歌っているのだから、ある程度はウケるとは思っていたけれど、あくまでも一発屋だと思っていたそうで、ブームが去れば引退しようと冷めた目で考えていたそうです

その後二枚目のシングル曲が売れないと、突然引退宣言を発表しましたが、これは3枚目のシングル曲を売り出す戦略だったらしく、しかしメディアには大きく取り上げられ、余計にややこしくなってしまったと言っています。

 

確かに策に溺れた感がありますね。よく考えたらこのエピソードからも芸名の由来の、「やることなすことが空回り」が当てはまっている気がします。

 

その後2013年に東京都歌舞伎町に経営者として『新宿ネズミーランド』の開店、2018年に東村山市カラオケBARを開店するなどしています。

現在も地方イベントや結婚式などの催し物を中心に活躍しており、歌よりもトークやパフォーマンスの方が評判がいいそうですね。

 




 

円広志

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画像出典元:円広志 プロフィール|オフィスとんで

 

1978年に発売された『夢想花』80万枚の大ヒットとなりました。ヒット曲が『夢想花』のみだったため、ネタとして一発屋扱いを受けることとなりました。

しかし、作曲家しては「探偵ナイトスクープ」のテーマ曲や、森昌子に『越冬つばめ』などの楽曲提供もしており音楽的な実力は確かなもので、そこは世間の人も認めているのではないでしょうか。

 

その他にも多くの番組のテーマ曲、CMソングを作っており、印税収入は相当なものであるといわれています。

小学5年生の時に、観に行った映画「禁じられた遊び」のテーマ曲「愛のロマンス」に感動し、アコースティックギターの練習を始めます。

 

中学生になると寺内タケシやザ・ベンチャーズに憧れて、エレキギターをを持ってバンドを組み、作詞作曲も始めます。

ギターも音楽の知識もほとんど独学だったとか。

 

それから大学時代にロックバンド「ZOOM」を結成してボーカルを務め、ライブハウスで活躍するようになります。

その後「ZOOM」はヤマハ音楽振興会主催のロックフェス、「大阪8.8ロックディ」に入賞し、凄まじい人気がでます。

 

しかし、1977年にバンドのメンバーの就職などで解散することとなりました。

その解散で、円は自らデモテープを作る傍ら、コンサート会場の警備のアルバイトをする生活になります。

 

しかし、そのコンサート会場で知り合いのヤマハの関係者と再開し、1978年のヤマハ音楽振興会主催のポプコンに参加するチャンスを得たのです。その時に歌った歌が、あの「夢想家」でした。

そしてこれで、ポプコン及び世界歌謡祭で立て続けにグランプリを獲得し、シングル発売して大ヒットにつながったのです。一度のチャンスをものにしたということですね。

 

その後、ヒット曲に恵まれなかったことについて、レコードは売れたけど、ファンはついてこなかったのは、元々ロックを歌っていたのにデビュー曲がポップスだったことで地元のファンからそっぽを向かれたと語っています。

数年間、荒れた生活を送っていた時に、たまたま知り合いのポニーキャニオンの宣伝担当者演歌の曲を作ってと言われ作った曲が、森昌子の代表曲となる「越冬つばめ」でした。

 

この曲が大ヒットし、このことから作曲家としての才能が発揮されることとなります。

また現在も気さくな性格からか、関西ではバラエティー番組などでも、主に準レギュラーパネラーとして席に座って司会者からいじられながら面白い事をいうというスタンスで高い知名度を誇っています。

 

バラエティーやコメンテーターもいいですが、素晴らしい歌唱力を持っておられるので歌番組などにも出演して歌声を聞かせてほしいですね。

 

 

嶋大輔

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画像出典元:Twitter

 

1982年に発売した『男の勲章』が大ヒットし、10代を中心に人気がでました。

 

横浜銀蠅のコンサートを見に来ていた時に、マネージャーにスカウトされて芸能界に入ります。

その後「ツッパリハイスクールRock’n Roll(試験編)」銀蠅の弟分としてデビューします。なお、テレビドラマ「茜さんのお弁当」で俳優デビューもしました。

 

1982年に「Sexy気分の夜だから」でソロ歌手デビューし、彼も出演したドラマ「天まで上がれ!」の主題歌となったシングルの「男の勲章」98万枚の大ヒットなり、日本レコードセールス大賞・男性新人賞を受賞。

その後、主に俳優としてテレビドラマ・映画に多数出演しています。

 

1988年にはスーパー戦隊シリーズの第12作「超獣戦隊ライブマン」に天宮勇介/レッドファルコン役で主演を務めて、その主題歌も歌っています。

バラエティー番組でも活躍するようになり、そこで「男の勲章」がよく登場したため再ブレークし、2003年にセルフカバーしてリリース、2005年には続編「大人の勲章」をインディーズで発売し、オリコンシングルチャートで20位、インディーズチャートで1位を記録。

 

2010年に焼き肉店「焼き肉男の勲章」、2015年には「男の創作カレー鍋ダイニングsora」などの飲食店をオープンさせますが、いずれも閉店しています。

店名に「男の」をつけてもやはりそれだけでは繁盛しなかったようですね。

 

その他にも一度は芸能界を引退して、政界転身を表明しましたが、最終的には断念しました。その後また芸能界復帰を発表しています。

2018年に、人気ドラマ『今日から俺は!!』の主題歌に『男の勲章』が起用され、主演の賀来賢人らによってカバーされたことから、人気が再燃焼しました。

 

ここまで見ていると、最初にブレークした「男の勲章」を最大限に利用して頑張ろうとしている感じが、前に紹介した「高橋ジョージ」タイプの一発屋という感じがします。

 

現在はライザップのCMに出演し、104キロあった体重を15.7キロ減量し、タレント活動を続けているようです。

若いころの写真を見る限りかなりの甘いマスクだったようなので、是非またダイエットに成功してカッコよくなってほしいですね。

 

 

城みちる

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画像出典元:ミューゼオ

 

1973年『イルカにのった少年』でデビューし、50万枚の大ヒットを記録し、翌年の日本レコード大賞で新人賞を獲得。

 

同時期にデビューしたあいざき進也豊川誕らと共に「新新御三家」と呼ばれました。

10枚のシングルをリリースしたのち、実家を継ぐために芸能界を引退しましたが、1986年にタレントとして芸能界に復帰しています。

 

その引退からの復帰への道のりは簡単ではなく、長かったようです。彼の父親は厳しい人で、芸能活動は高校3年間だけで、その後は広島の家業の電気店を継ぐように言われました。

そしてその約束通りに継ぎ、25歳で結婚もしましたが、妻は田舎になじめず、東京に行くことになります。

しかし、結局うまくいかずに離婚し、おまけに実家からも勘当されて生活に困り、アイドル時代のつてで運転手をしていたそうです。

 

そんな不遇な生活を送っていた時に、ビートたけしとTBSプロデューサー新番組をやるから出てほしいと誘われたことがきっかけで、当時人気のバラエティー番組「風雲!たけし城」に体を張った出演をして、芸能界の復帰を果たしました。

そこから広島の局の人から番組のオファーがあったり、勘当されていた父親とも和解することができたりと、安定した生活を送ることに。

 

現在は歌謡ショーやアルバムのリリースなどや全国の老人ホームを無料で回るなどのボランティア活動も精力的に行っているようです。

この老人ホームの訪問は、今は亡くなられた父親との約束だそうで、1000か所以上の数を回っておられ、その際のCD販売などの宣伝活動は一切されないとのことからも、彼の人間としての素晴らしさを感じずにはいられません。

 

歌謡ショーの方はアイドル時代に付き合っていた伊藤咲子と同じステージに立つこともあり、当時のネタを2人でトークすることでお客さんを喜ばせているそうです。

還暦を過ぎて、新曲の依頼もあるが、本人は「永遠の一発屋」をキャッチコピーにしたいからと断っているとか一発屋であることがむしろ売りということなのでしょう。

 




 

ジェロ

jero画像出典元:Twitter

 

2008年シングル『海雪』プロデビューし、その年の日本レコード大賞の最優秀新人賞を受賞し、紅白歌合戦にも出場しました。

 

本人はアフリカ系のアメリカ人ですが、祖母が日本人のため、その影響で幼少のころより演歌に親しんできたようです。

また、演歌というジャンルを歌いながらも、ヒップホップのファッションでラッパーのようなスタイルや、プロモーションビデオもラップのバックダンサーを用いるなどの個性的な演出をしていました。

 

その容姿はウィル・スミス似のイケメンと言われ、歌声は甘く、聞いただけなら日本人のそれとしか思えないとの高い評価が寄せられているようです。

 

2003年にピッツバーグ大学を卒業したのちに和歌山県の英会話学校で講師として働き、次に大阪でコンピューター技術者の仕事につきます。

それと並行して、「NHKのど自慢」に出場したり、様々なカラオケ大会に応募したりと、独自で演歌歌手を目指して活動を続けました。

 

2005年に大阪で行われたカラオケ大会で優勝した際に、ビクターエンタテインメントのスカウトの目にとまり、オーデションを東京渋谷のカラオケボックスで受けて合格

その後2008年にシングル「海雪」でデビューしました。

 

その時は前例のない渋谷HMVでのイベントを行い、披露しました。ジェロはデビュー当初から亡き祖母のために紅白歌合戦への出場を強く望んでいたため、その夢が叶うこととなりました。

2016年からボストン大学大学院の通信制で情報科学セキュリティを学び、2018年に終了します。

 

2018年に10周年記念コンサート「感謝感激」を開催したのち、米ボストン大学大学院を卒業したことを機に、芸能活動を休止することを表明しました。

 

今後は外資系のIT企業に就職して、コンピューター関連の仕事につくようです。

彼の軌跡をみていると、一つ一つの目標に向かって、着々と行動を起こし達成していく、達成したらまた次の目標という感じがします

彼に行き当たりばったり、運しだいという言葉はないようですね。

 

 

ゴールデンボンバー

golden bomber

画像出典元:リアルサウンド

 

2013年『女々しくて』オリコンカラオケランキング49週1位を獲得しました。

4人組のヴィジュアル系エアーバンドとして結成され、基本的にボーカル以外のメンバーは、楽曲に合わせ、楽器を演奏するふりをしています。

 

この形式は戦略的なことなのかというとそうではなく、現代の音楽はステージで演奏している楽器だけでは成立していないことが多く、生演奏に聞こえても、実は演奏者はリズムを維持するためのクリック音を聞いていることもあり、それは音の大部分が機械的に抑制されているということなので、生演奏かどうかはそれほど重要ではないと、ボーカルの鬼龍院はいっています。

その上、エアーバンドでも成立するんだということを証明したいという気持ちもあるそうです

 

そのきっかけとなったのは、鬼龍院20歳の時に好きだった子が耳が聞こえない障害を持っていて、その子を理解しよう努力するうちに、音楽の無力さを感じるようになったと言います。

頑張っていい曲を作ってもあの子には届かない、という思いから、演奏しているかなんてどうでいい話で、もっと多くの人が音楽を楽しめるようにしたいと考えるようになり、耳が聞こえなくてもダンスなどのパフォーマンスで音楽を楽しんでほしいと、そんな理由もあるそうです。

 

バンドの売りは、ボーカルの歌の他に、メンバーによる様々なパフォーマンスであり、今までにいろいろなことにチャレンジしています。

そんな鬼龍院は作詞作曲の他にも、バイオリンなどの様々な楽器も演奏できるようです。

 

現在もライブ活動の他、メンバー各々のバラエティー番組での活躍やブログ活動など精力的に活動しているとのこと。

特にメンバーの歌広場淳さんがNHKの朝ドラのレコメンドをネットに載せていて、その文章力と考察力は素晴らしいです。

 

彼らの無理にヒットは狙わず、すでにいるファンを大切にするという考え方が、一発屋でもファンが離れていかない理由かもしれませんね。

今の彼らの収益はライブのチケット収入とグッズ収入が多いそうです。

 

彼らが言うには、CDは利益率が低いから、買ってくれるのは一枚で良くて、その代わりに利益率が高いグッズを買ってほしいと言っていますが、そういう風に正直なところもファンからすれば好感をもてるのかもしれませんね。

 

 

ロードオブメジャー

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画像出典元:UtaTen

 

2002年シングル『大切なもの』インディーズながら約91万枚セールスしオリコン19週連続トップ10入りしました。

バンド名の「ロードオブメジャー」はこのバンドを結成するきっかけとなった同名のテレビ番組「マハラジャ」の企画名からとられたものです。

 

元々は全国各地にいるバンドの中から各パートごとにスカウトされた人を集めてバンドを組み、100日間かけて全国50か所を回ってライブをし、インディーズから出したCDがオリコン初登場50位以内に入ればメジャーデビューすることができ、無理なら解散という企画でした。

 

そんな中で出されたシングル「大切なもの」がオリコン16位でデビューが決定。

それにしても各パートごとに引き抜くということは、元々いたバンドを抜けることになるということで、なんとも残酷なようにも感じますが、ボーカルのけんいちは、当時21歳で神戸でバンドをやっていましたが、ほかのメンバーに音楽を続けていく気があまりなかったので、この企画に参加したと語っています。

 

2004年にメジャーデビューし5年間の活動をしましたが、音楽性の違いから2007年に解散。

それぞれスカウトされるほどの実力の持ち主だっただけに、音楽性を統一させることは難しかったのかもしれません。

 

解散はしましたが、元メンバー間では仲が良く、それぞれミュージシャンとしてソロ活動しているようです。

 




 

RADIO FISH

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画像出典元:music.jp

 

お笑い芸人の「オリエンタルラジオ」とその他ダンサーとの6人で結成されました。

オリエンタルラジオは2005年に「武勇伝」のネタてブレークを果たすも、そこから10年間人気は低迷。

 

しかし2014年にネタの延長上として、お笑い番組「芸人ちゃんネタ祭り実力派芸人スペシャル」で初登場したところ、大きな反響がありました。

 

またこのメンバーのダンサーもつわものぞろいで、中でもFISHBOYこと中田啓之は、ストリートダンス世界大会で優勝した経験の持ち主で、オリエンタルラジオの中田敦彦の実の弟です。

その他のメンバーもかなりの実力であるといわれています。

 

2015年配信限定シングル『PERFECT HUMAN』をリリースすると、独特のパフォーマンスが話題になり、テレビ朝日系「爆笑問題の検索ちゃん芸人ちゃんネタ祭り」でテレビ初披露し、その後も多数の番組で出演するようになります。

中でもフジテレビの「ENGEIグランドスラム」でパフォーマンスすると、iTunesランキング1位を獲得し、「ミュージックステーション」や「FNSうたの春祭り」など、お笑い番組にとどまらず、音楽番組にも多数出演し、『24時間テレビ「愛は地球を救う」』にも出演しました。

 

そして、その年の日本有線大賞話題賞、日本レコード大賞企画賞、紅白歌合戦にも出演しました。あの独特な踊りとリズム、癖になりましたよね。

 

その後、活動はYouTubeに移行していっているようで、2016年YouTube年間トレンドランキングの音楽動画部門で、『PERFECT HUMAN』のライブ映像が4700万再生で3位ミュージックビデオも5位にランクインし、『You Tube Fan Fest Japan 2016』にも出演。

2020年にオリエンタルラジオの二人が吉本興業を退所したのを機に、RADIO FISHもフリーとして活動を続けており、デビュー10周年となる2025年に日本武道館でワンマンライブを開催する予定です。

 

 

H2O

h2o

画像出典元:UtaTen

 

日本のフォークデュオで、大学在学中に活動することを決意し、グループ名は化学反応を起こしたいと意味から『H₂O』となります。

 

1980年薬師丸ひろ子主演の「翔んだカップル」の挿入歌『ローレライ』でデビューし、主題歌『僕等のダイアリー』が続けてヒットしました。

1983年『思い出がいっぱい/10%の雨予報』がリリースされ、アニメ「みゆき」の主題歌に起用されたことにより大ヒットします。

 

その後二人はオリジナル曲での活動を求めていましたがなかなか認めてもらえず、シングル発表されるのは有名な作詞作曲家のものが多く、自分たちの曲はB面か、アルバム収録曲でした。

その上、『思い出がいっぱい』以降ヒット曲がなく、余計に焦りを感じるようになったようです。

 

そして1985年に解散することになりましたが、1999年に再結成し、セルフカバー『思い出がいっぱい~the21st century~』を発売し、その後解散

この曲は、2000年代から音楽の教科書に使用されるなど、現代でも卒業ソングとしても人気があります。

誰もがこの曲を聴くと、青春の懐かしい思い出が蘇ってきます。

 

現在はそれぞれがソロ活動し、ライブを開催したり、作曲家として楽曲を提供したりして活動しているようです。

なかざわけんじは音楽活動を続けながらRKK熊本ラジオのパーソナリティやTV出演をしており赤塩正樹は1985年に渡米し、ニューヨーク大学大学院を卒業し、帰国後はタンフジパシフィックミュージックで専属作曲家を経て、現在 A.K.A Planet にてプロデュース、アーティスト、語学コンサルトをしているようですね。

 

 

KAN

kan

画像出典元:kimuraKAN.com

 

日本のシンガーソングライターで、1991年の『愛は勝つ』日本レコード大賞を受賞、紅白歌合戦にも出場しました。

この曲は、当時人気のお笑い番組「邦ちゃんの山だかつてないテレビ」のエンディングテーマに使われたことにより、人気に火が付いたと言われています。

 

中学の時に独学でギターを持ち始め、ビートルズをコピーするようになります。そして3年生の時にビートルズのコピーバンド「ミュートルズ」を結成します。

この時の完成度はとても中学生レベルではなかったそうです。

法政大学社会学部に入学したが、ピアノを買うためにアルバイトに明け暮れていたそうです。1983年に「アネット」というバンドに加入。

 

その後、1984年にヤマハ「East West ’84」で優秀賞、「Sound Contest ’84」でヤングジャンプ奨励賞を受賞します。

1987年にシングル「テレビの中に」でデビューし、1990年のアルバム「野球選手が夢だった」での収録曲だった「愛は勝つ」が2度にわたって番組のエンディング曲に選ばれ、大ヒット。

 

ヒットから30年余りが経った今でも、山崎育三郎など様々な有名アーティストがカバーし、東日本大震災やコロナで苦しむ人々を励まし続けています。

 

愛は勝つ」が200万枚も売れてしまったために、世間では「一発屋」と認識されがちですが、彼に影響を受けたアーティストは多く、aikoや平井堅は過去の「ミュージックステーション」の番組内で、KANの曲が好きだと発言し、司会のタモリに二人は(aikoと平井堅)「カンスト」だと、KANを愛するするスペシャリスト的な意味合いで呼ばれていたそうです。

 

また、様々なアーティストとユニットも組んでおり、2006年には桜井和寿と「パイロットとスチュワーデス」、スターダストレビューとスキマスイッチ、秦基博とは「ホスキモ」というバンドを結成し、山崎まさよしとは「YAMA-KAN」という名で活動しています。

このメンバーを見るだけでもKANの音楽的な実力が確かなものであると感じますね。

 

現在の彼も、たくさんの曲を歌い、音楽活動は精力的に行われており、アルバムの発売にライブ、ラジオと活躍しているようです。

 




 

C-C-B

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画像出典元:アマゾン

 

1985年ドラマの主題歌に起用された『Romanticが止まらない』が大ヒットし,日本有線大賞金賞を受賞。

1982年結成当時のバンド名は「Coconut Boys」和製ビーチボーイズをコンセプトとしていたが、メンバーはあまりビーチボーイズを分かっておらず、メンバー自身の音楽性は反映されされませんでした。

 

1985年に3枚目のシングル「Romanticが止まらない」がTBSテレビドラマ「毎度おさわがせします」のオープニングテーマに起用されて大ヒットとなり、バンド名も「C-C-B」となります。

電子ドラムを叩きながらドラマーがリードボーカルと取るスタイルが話題になり、その後も「スクールガール」「Lucky Chanceをもう一度」「空想iss」をリリースされ、次々とヒットしました。そして紅白歌合戦に出場。

 

その後もシングル『ないものねだりのI want you』オリコン1位を獲得するなど活躍しますが、メンバーの脱退などがあり、その後1989年に解散しました。

メンバーの思いとは裏腹に、カラフルな髪の色や派手な衣装によるアイドル的な扱いという、周りの状況にギャップが生じたのかもしれないと言われています。

 

現在のメンバーは、音楽家として成功していたり(米川英之)、薬物で逮捕されたり(田口智弘)、病気で亡くなったり(渡辺秀樹)、地元でローカルな音楽活動を続けていたり(笠浩二)と千差万別なようですね。

 

 

class

class

画像出典元:ORICON NEWS

 

日本の男性デュオグループで、1993年のデビュー曲『夏の日の1993年』販売枚数170万枚を超えるミリオンヒットを記録しました。

横浜の米軍基地などで、外国人を相手にハウスバンドでR&Bのカバー曲を中心に音楽活動をしていた津久井と、ソロデビューしたものの、アマチュアに戻りシステムエンジニアをしながらオリジナル曲を作っていた日浦とが「サイモン&ガーファンクル」のようなデュオを作りたいというプロデューサーに引き合わされ、「class」が結成。

共に33歳という遅咲きのデビューでした

 

デビュー曲の「夏の日の1993」は大ヒットとなり、その後もシングルも7枚、アルバムも6枚リリース。

1996年に音楽性の違いから解散し、それぞれの活動を行いますが、また2003年にデビュー10周年記念としてライブを開催して再結成し、「夏の日の1993~2003 up to date session~」をリリースました。

 

その後2008年にはメンバーも一人代わり、津久井と岡崎公聡で再始動します。新しい「class」として「冬の日の2009」をリリース。

岡崎は、音楽家ではなく、GMAエンタープライズ代表取締役だったため、元メンバーの日浦はなぜ?と思ったそうです。

 

しかし、2009年にメンバーの一人の津久井克行が病死し、現在は活動休止となっています。

 

 

大事MANブラザーズバンド

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画像出典元:あの人の現在

 

1991年にリリースした『それが大事』が大ヒットとなりました。

1982年に結成され、男女混成であることや曲調・グループ名の印象から「埼玉のサザンオールスターズ」と呼ばれていました。

 

しかし、デビュー以来、ヒットに繋がらず、次の作品でヒットを出さないと危ないと事務所から契約解除をほのめかされて背水の陣で制作した「それが大事」が大ヒット。

バンド名の由来はただの居酒屋での思い付きで、語呂がいいからということらしいです。

 

しかしその後、シングル、アルバム共にヒットせず、1996年に解散

解散後はそれぞれソロ活動を行っているメンバーや、違う業界の仕事に就い所属事務所とれたメンバーもいるようです。

 

2009年にオリジナルメンバーではないですが、新たに「大事MANブラザーズバンドオーケストラ」という名前で復活し、「東京2009アジアユースパラゲームズ」にて「それが大事~完全版~」がテーマ曲になりました。

 

その他にもこの「それが大事」は、香港の歌手にカバーされたり、プロ野球選手のテーマ曲になったりと、解散してもみんなから忘れられない曲となっているようです。

2012年にボーカルの立川は株式Ts Officeを設立して、代表取締役社長に就任しました。現在ソロで活躍しているようですね。

 




 

秋川雅史

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画像出典元:中日新聞Web

 

日本のテノール歌手で2006年のカバー曲『千の風になって』紅白歌合戦に出場すると、オリコンチャート1位になり、大ヒットとなりました。

この大事な人を失った人の悲しみに寄り添うような歌詞が、当時、身近な人を亡くした人の心のよりどころとなったのではないでしょうか。

 

4歳の時からヴァイオリン、ピアノを習い始めます。

中学の時に、声楽家の父親の勧めで、声楽に転向し国立音楽大学、大学院、その後4年間イタリアのパルマにて修行して、帰国後は数々のコンサートに出演し、ベートーヴェン作曲の交響曲9番のソロなどを歌いました。

そして、1998年にカンツォーネコンクール第1位、日本クラッシック音楽コンクール声楽部門最高位を受賞。

 

その後地道な努力続け、30歳の時にコンクールで認められ、34歳でデビューし、39歳でこの曲に出会うこととなります

2001年に日本コロムビアよりテノール歌手としてCDデビュー。

 

そして2006年に「千の風になって」をカバーして、紅白出場を果たします。

紅白で歌を披露することにより、その彼の歌声と心にしみる歌の歌詞に感動し、共感する人が続出し、2007年にはオリコンチャート1位になりました。

 

コ○ナ禍の影響で数々のコンサートなどが中止になったため、ステイホームで木彫りを始めたそうで、なんと自身が制作した彫刻作品が「二科展」に入選し話題。

 

現在の彼のコンサートは、「聞いてよくわかるクラッシック」と題し、音楽の世界を楽しく学べるトークと歌でステージを構成されており、「歌劇『椿姫』より~燃える心を~」、「アヴェ・マリア」、「砂山」、「イヨマンテの夜」といったクラシックや日本の名曲と共に、その曲の歴史的背景や作曲家のエピソードなど、また「見上げてごらん夜の星を」や、「乾杯」といったポップスのカヴァー曲も披露し、聴いている人を飽きさせない工夫をしているようです。

現在も全国各地で行われるコンサートのチケットはすぐに売り切れてしまうようですね。

 

 

寺尾聡

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画像出典元:映画.com

 

1981年に『ルビーの指輪』が大ヒットし、日本レコード大賞など、数々の賞を受賞。

1965年にカレッジ・フォーク・グループ「ザ・サベージ」に加入し、ベースギターを担当し、1966年に「いつまでもいつまでも」でデビュー、二枚目の「この手のひらに愛を」は大ヒットしますが、グループを脱退し、1968年に「ザ・ホワイトキックス」というグループサウンズに参加し、シングルを1枚出して解散します

 

その後、1968年に石原軍団に入り、「黒部の太陽」で俳優デビューをしました。それからは主にテレビドラマに出演し、二枚目半的な役柄を演じることが多かったようです。

そして、石原プロモーション制作のアクションドラマ「西部警察」では、サングラスをかけニヒルな表情が彼のトレードマークとなりました。

 

歌手としては1981年に「ルビーの指輪」が大ヒットし、当時の人気歌番組の「ザ・ベストテン」では、12週連続1位という破られることのない記録を樹立。

その後、石原プロを退所しましたが、1980年代後半より黒沢監督の「乱」「夢」「まあだだよ」に出演し、2001年には映画『雨あがる』で日本アカデミー賞最優秀主演男優賞を受賞。2005年にも映画「半落ち」で同賞の2度目の受賞を果たしました。

 

日本レコード大賞と日本アカデミー賞最優秀主演男優賞の両方を獲得した人は、寺尾以外にはいないといわれています

音楽活動の方も2005年のライブを機に18年ぶりに再開し、現在でもジャズベースをプレイしており、その腕前は衰えてはいないとのことです。

 

2008年春の褒章伝達者発表において、紫綬褒章を受章することが発表されました。

彼のあまりにも輝かしい経歴をみているとさすがに「一発屋」は失礼かもしれませんね。

 

そんな彼ですが、共演者などから、なかなかの自由奔放なところがあるともっぱらの評判らしく、インタビューなどで時よりみせるちょっとやんちゃな笑顔がそれを物語っています。

 

 

クリスタルキング

kurisutarukingu

画像出典元:アマゾン

 

1979年の『大都会』が累計150万枚以上のミリオンセラーとなりました。歌い始めからエンジン全開なこの曲は迫力満点で歌唱力がないと歌えませんね。

翌年にリリースされた『蜃気楼』も75万枚のヒットとなり、紅白歌合戦にも出場。クリスタルキングはツインボーカルによる7人組のロックバンドです

 

1971年にムッシュ吉崎を中心に結成され、佐世保の米軍キャンプのクラブや、ディスコで米兵相手にアメリカ音楽を演奏して活動。

1975年低音の吉崎と、高音の田中によるツインボーカルで九州を中心に徐々に人気が出てきました。

 

1976年カバー曲の「カモン!ハッスル・ベイビー」でデビューします。

1979年世界歌謡祭グランプリ受賞をきっかけに、キャニオン・レコードより再デビューし、シングル「大都会」をリリースし大ヒットしました。

 

1980年の「蜃気楼」も資生堂のキャンペーンソングに起用され、75万枚のヒットを記録します。人気歌番組「ザ・ベストテン」では2曲連続1位を獲得。

1984年に発売された「愛をとりもどせ!!」は、テレビアニメ「北斗の拳」の主題歌に起用され、50万枚のセールスを記録します。

 

1985年から2002年までの間、メンバーの脱退や加入を繰り返し、最終2002年にはムッシュ吉崎のソロバンドとなりました。

2009年にグループ名の「クリスタルキング」吉崎の会社が商標登録しており、元メンバーの田中が元を付けずにグループ名を挙げたりしたことで、商標権の侵害に当たるとして、吉崎が田中を相手取り、グループ名の使用禁止と損害賠償などを求め東京地裁に提訴。

 

このことからも吉崎と他のメンバーとの関係は修復できないほど悪化していることがわかります。

吉崎は現在もソロクリスタルキングとして音楽活動を継続しているようですが何だか悲しい話ですね。

 




 

たま

tma画像出典元:アマゾン

 

1990年に『さよなら人類/らんちう』でメジャーデビューしオリコン1位、売上60万枚、紅白歌合戦への出場を果たしました。

フォークロックバンドとして元々ソロ活動していた3人から結成されましたが、その後4人となります。

複数の楽器を演奏し、大衆音楽的要素と前衛音楽的要素を兼ね備えていたことでバンドは「たま現象」と呼ばれる社会現象的な人気を獲得。

 

1989年にTBS系深夜番組「三宅祐司のいかすバンド天国」に出演し、キノコ頭にチャンチャンコに下駄ばき姿知久や、山下清を彷彿とさせる体型・服装の石川の個性的な容姿や、チャッチフレーズの「悲しい気持ちはとっても不安」を体現するような楽曲の「らんちう」でインパクトを与え、14代目イカ天キングとなりました。

その後も5週連続勝ち抜き、第3代グランドイカ天キングの座につきます。

 

1990年シングル「さよなら人類/らんちう」でメジャーデビューし、CMソングにも起用され、大ヒット。

1992年に自分たちの表現を貫徹したいという意図から、個人事務所「たま企画室」を設立し、レーベルも日本クラウンから東芝EMIに移籍。

その後バンドブームも下火となり、メディアに現れることもなくなっていきましたが、マイペースに活動を続けました。

 

しかし、純粋に他の音楽がやりたくなったという理由で、2003年に解散することになります。

現在はもともと全メンバー、ソロ活動をしていたため、解散後も変わらず音楽業界で活躍しているようです。

 

2010年たまの解散後のかれらの活動を追ったドキュメンタリー映画「たまの映画」が公開されました。

その他にも知久、石川、滝本の3人はライブイベントで共演したり、セッションしたりと、一時的な再結成ライブも行っているようですね。

 

 

山根康広

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画像出典元:日本クラウン

 

1993年に発売した『Get Along Together』がヒットし、日本レコード大賞で最優秀新人賞、紅白歌合戦への出場も果たしました。

1989年に村中伸一とバンド「BE FREE」を結成しましたが1991年に解散し、山根はソロに転向

 

元々、平日は会社員、週末は音楽活動をする日々を送っていました。そんな時クラウンレコードの目に留まりメジャーデビューします。

 

1993年に発売した「Get Along Together」が174万枚のヒットを記録し、その後は会社を退職して音楽活動に専念しました。

彼の音楽は時代性を感じさせない楽曲で、この曲は、結婚する友達のために書き上げたラブソングで、メッセージ性も高く、いまだに結婚式などでも多く歌われています。

2010年には彼自身が、市川海老蔵と小林麻央の結婚披露宴で歌ったそうです。

 

その後はレコード会社を移籍しながらライブ活動や楽曲制作を続けたり、韓国のボーカルグループsg WANNA BE+のサウンド・プロデュースを行うなどの活動も続けているようですね。

 




一発当てるだけでもすごいし正直食っていける

出典:mag.mysound.jp

 

ミリオンなどの大ヒット曲を立て続けに出す歌手はそれ程たくさんはおらず、ほとんどの歌手がそこそこの売上で収まっている世の中で、1曲だけでも大ヒットしたことは凄いことではないでしょうか。

むしろ、売れ続けている歌手が本当にみんないい曲を書いているとは限らない気もします。何か特典を付けて売っている歌手なんかもいますしね。

そう考えると、逆に言ってみれば一発屋は曲の素晴らしさのみで売ったということになります。そしてその一曲が良すぎたために、次の曲に対するハードルはかなり上がってしまっているのです。

 

「一発」をゲットした人はほんの一握りです。そしてその「一発屋」は本当に消えてしまっているのでしょうか?

例えば、今回紹介した歌手のヒット曲のほとんどは、カラオケで歌われれば印税が入ります。全国で何十年にわたって、何万回も歌われていることを考えると、それだけで凄い額になるでしょう。

 

また、自身で曲を制作して売れた場合は、歌手としての印税、作詞者・作曲者・編曲者としての印税の両方を得ることができるのです。

なので、一度紅白歌合戦に出場することができれば、それが実績となり、それ以降の営業の仕事がたくさん舞い込み、「紅白出場歌手です!」「日本レコード大賞受賞歌手です!」と紹介され続けるのです。

 

このことからも、「一発当てれば、一生食べていける!」と言えるのではないかと思います。

 

 

一発屋歌手まとめ

 

今まで一発屋女性歌手男性歌手36選を紹介してきました。

「一発屋」であることを前面に出して最大限に利用している歌手言われたくないと思っているであろう歌手と、思いは様々ですが、これまで見てきたように、大ヒット曲は一曲でも、ほとんどの歌手がもともと音楽キャリアがかなりあって、長年努力してきているため、その後シングル曲を出しても、ある程度の売上を上げている歌手の方が多いようです。

 

その上に大ヒット曲による印税などの恩恵を受けることで、さらに生活は潤うことでしょう。

そんな実力を兼ね備えた彼・彼女達だからこそ、一発屋と言われても、その後、十分食べていける生活を送っているようです

 




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